地学雑誌 第200号


01 02 03 04(表紙、地学雑誌第200号発刊の辞)
05 06 07隠岐国竹島に関する舊記
08(樺太占領地陸上地名の改称)
09(隠岐国竹島の探検)



隠岐国竹島に関する舊記
同島は去2月22日、島根県令を以て、公然我が帝国の範囲に入り、行政上隠岐島司の管轄とせられたり。而して其当時吾人は同島の外国人に依り発見せられたる事実及地形に関する一般を紹介し置きたるが(本誌第17年196号参照)此地は去る5月27、8日の日本海の海戦に依り、リアンコートLiancourtRocks岩の名称の下に世上に知られたり。今此島の沿革を考ふるに其発見の年代は不明なれども、フランス船リアンクール号の発見より遙に以前に於て、本邦人の知る所なり。徳川氏の時代に於て之れを朝鮮に與へたるが如きも、其の以前に於て、此島は或は隠岐に或は伯書、石見に属したり。明治の初年に到り、正院地埋課に於て其の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版にかかる地図は多く其の所在をも示さざるが如し。明治八年文部省出版宮本三平氏の日本帝国全図には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず。又我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコ一ト岩と題し、リアンコート号の発見其他外国人の測量記事を載するのみなり。故に連合艦隊司令長官報告 大海報第119号に之れを襲用してりアンコート岩として報ぜられ、大本営海軍幕僚は其後是を竹島に訂正[6月15日 官報6586号所掲 日本海海戦の詳細中竹島とあり]せられたり。

竹島考 伊藤東涯
竹島図説 金森 謙
多気甚麼襍誌 松浦竹四郎(源弘) 嘉永七年十一月
松浦氏は地理に熟心なる人なり。而して其記事の啻に正確なるのみなず著書中当時の人心にして竹島を無視せる事を慨嘆せるの文字さへあり。予は竹島に関する記事を輯むるに際し其多くを氏の多気甚麼襍誌に依り。他に二三の材料をも参照しぬ。記事或は正確を失するや末だ計る可からざるも暫ぐ此の材料にて同島に関する沿革及奮記に依れる地理を記載すべし

第一、沿革
竹島一に他計甚慶又は舳羅島と云ふ。島に大竹藪あり竹の周圍二尺に達す。其竹極めて大なるが故、此名ありしが如し。同島に関し、最も古き記事として伝われるものは、北史巻の十四[十九丁裏より廿一丁裏まで]倭国伝末の記事なりとす。是れに由るに、遺文林郎斐世清使倭國度百済行至竹島南望耽羅島云云の句あれども斐世清なるものは、小野妹子に従ひて来朝せしものにして、其来朝の年は推古帝十五年、即ち隋の煬帝大業三年[西暦六百七年]なりとす。而して松浦氏の既に云へるが如く北史の竹島なるものは果して此島なるや否や容易に判定し能はず。其他竹島に関し一二の記録おれども一として信ず可きものなし。
伯耆民談に依るに伯州米子の町人に大谷、村川の両氏は代々名ある町人にて、子孫は今にも町年寄を勤む。此両人竹島渡海免許を蒙る事は、当國前太守中村伯耆守忠一とあり。又慶長十四年[1609年] 卒去あって嗣なきが故に跡を断て爾来元和二年まで国主なくして御料となる。然るに依って御上代年々武都より来番して当城に居し、伯州を鎮護す。同年阿部四郎五郎在番あり。此時両氏竹島渡島の事を希ふ。然るに翌元和三年丁巳松平新太郎光政卿当國を管領して入都あるにより、両人また願う處に、光政卿やがて武都に告て之れを許され爾来竹島に押渡海漁をなす。其後毎歳渡海不倦怠[伯耆民談]

元和四年(一六一八年)那両を江府に召され、免許の御朱印を賜う。但し直ちに両商へ賜わらず。一旦烈候[新太郎光政君]へ渡し給うて之を拝領す。[此年より両商は、将軍家の拝謁を辱ふして時殿を拝受し、竹島の名鮑を奉貢す。後八九年を歴て両商の内一名づつを召して隔年の拝謁に定めらる(竹島図説)]是によって此両家不絶渡海して漁事を致しに、後七十四年を過て、元録五年壬申(一六九二年)に渡海する所に唐人群居して海猟をなす。両氏是を制すといへども、更に聞入れさるのみならずして危難とするにより、両氏無念ながら帰帆す(伯耆民談)

竹島圖説に、元和五年(一六一九年)春二月十有一日、例年の如く米子を出帆して隠岐の國福浦に着し、同三月廿四日、福浦を出帆して同月廿六日朝五時竹島の内イカ島と云ふ處に着す。此時●めて異邦の人魚獲するを見るを得たり。蓋し是より先は会て見ざる所なり。翌廿七日我舟を同島の濱田浦に廻さんとする 海跡に於て又船二艘を見たり。但し一艘は居船にて一艘に浮べて、異国人三十人許リ是に乗れり。我舟を八九間隔て大阪浦に廻る。其人員に属する者の一人、陸に残り居たるが、忽●小舟に乗して我近傍に来る因て之を問うに朝鮮か「カワテレカワラ」の人民と答ふ。面那鮑猟の故を●るに、彼答て曰、原より此島の鮑を猟するの意なし。 然れども此島の以北に一島有て、上好の鮑尤多し。此故に吾●朝鮮國王の命を奉して二年毎に一回彼島に渡れリ。当年も亦那島に渡リ帰帆の砌難風に逢ひ不斗此島に漂着すと云ふ。爾後我輩曰此竹鳥は昔時より、日本人鮑猟を●れ来れる所なれば、速やかに出帆すべしといへば、彼か答えに難風に邁ひ船皆損破するが、故に之を補造して後去るぺしと説けども、其實は急に退くべきの状態にあらず。我輩の上陸して会て●造せる小屋を検査するに、猟船八艘を失ヘり。 由て之を那の象胥に質せば、皆浦々へ廻はせりと答ふ。加之我舟を居へんと、強れども彼は衆我は寡固より敵すべからず。恐懽の情なきを能はず。故を持って三月廿一日晩七つ時竹島より出帆せり。但串鮑、笠、頭巾、味噌、麺一丸を携へ帰れり。是は遺回の渡海の證と做さんが為に四月遡日石州濱田へ帰れられし。雲州をえて同月五日七時に伯州米子に帰国せり。

翌元禄六年(一六九三年)の年渡海するに、唐人多数渡りて家居を設けて漁猟を恣にす。于時両氏計策をなして唐人両人連帰りて米子に参着し、同年四月廿七日未の下刻、灘町大谷九郎右衛門宅に入り斯両人島の趣、両人の唐人召連帰帆の事を太守へ訟るに、遂に武都の沙汰に留まるとなり[伯耆民談]

竹島圖説 翌元禄六年(一六九三年癸酉の年春二月下旬、再び米子を出帆して、夏四月十七日末刻竹島に着せり。然るに昨年の如く朝鮮人等専ら漁獲をして、我を妨げ動もすれば不軌の語言を放って和平ならず。止む事を得ず、其の中の長者一名と、火伴両三輩を延ぴて我船に入れ、同月十八日竹島より出帆して、同廿八日米子へ帰着し、其由を國候松平放伯耆守へ訴ふ。 國●又之を御勘定奉行松平美濃守殿へ達せられ、因て台命を下して、那の一夥の人員を江都へ召れ、審かに諸件を正させ玉ひ、時に日本人は朝鮮人との渡海は時候を異にせるにあらずやと尋れられしがは、右の一夥の答に、我等は毎歳春三月の頃渡島し、七月上旬帰帆の節獲舟獲具等を小屋に納め置、翌年渡海の節まで毫も差違なかリしに元禄五年(一六九二年)より小屋を発き肆ままに器械を奪ひ、依然として居住するの模様にに見ゆれば、全く此事朝鮮人創めて竹島を探索したるは、疑いなしといへり。苟且之に依て魚猟為し難しきのよし、しばしば愁訴に及べりと云々

同年大谷村川連来る。彼二人の唐人等米子より、国府城下に到る時に加納郷左衛門、尾関忠兵衛両士領主の下知に應じて召連れ鳥取に入る[然れども此後はに見ることなし如何なりしやらん]。さて此後渡海あやりと、然るによって三年を過て元禄九年(一六九六年)丙子年正月廿八日(伯耆民談) 憲廟(徳川家綱其在職御光明天皇慶安四年[一六五一]より●元天皇延實八年[一六八〇]に至る寿八十五)の御時なるが朝鮮より竹島は鮮朝の島の由を申 上げれば竹島を朝鮮へあたえ給うとかや(草盧雑談) かくて、御月番(正月廿八日なり)御老中戸田山城守殿奉書下され侯よしなり(竹島図説)

先年松平新太郎因伯両州領知の節相伺之伯州米子町人村川市兵衛・大谷甚吉至今入竹島ける。為漁獲向後入島の儀制禁可申付旨被仰出可存其趣恐惶謹言

元禄九年子正月廿八日

土屋相模守  在判
戸田山城守  仝
阿部豊後守  仝 
大久保加賀守 仝

松平伯醤守殿
宗對馬守義卿より出たる家譜に、元禄九牟因幡國と朝鮮國との間、竹島と唱●島有之此島両國入合の如く相成居。不宜候に付朝鮮之人、此島ゑ参候事を被禁候段、従公儀被仰出其後朝鮮國、禮曹参判に家老使者。前々年より再度差渡候処、論談及入組候を今年正月廿八日義眞國元に御暇被成下候節、右竹島に日本人相渡候儀、無益との事に候間被差留候段、領主に被仰渡候由義眞に被仰渡候に付義眞帰國の上、同年十月朝鮮之澤宮使對話仕候。刻右被仰出之次第伝達仕●に至り、論談相済候。

尚此余さまさまの、御沙汰書世にさまさま有へけれども、見ることを得ざるまましるし置く。只此二通は不思議に其寫を得しまま、此処に抄学して此一條の考證とすべきものなり。(未完)


隠岐国竹島の探検
同島は本年隠岐国に編入せられ、島根県知事は部長島司及び有志者により組織せる一行50名を引率して竹島探検を計りぬ。隠岐汽船会社の第二隠岐丸は8月10日頃発程の途に就くべし[境町通信時事新報38年7月19日]