九州日日新聞 1893年9月・10月


1893年09月20日一面 三面(下から2段目)
1893年10月08日一面 二面(下から3段目)
1893年10月10日一面 二面(下から3段目)
1893年10月11日一面 二面(下から2段目)
1893年10月12日一面 三面(下から2段目)
1893年10月13日一面 三面(上から3段目)

●漂流者清國より還る
去十一日上海より長崎に入港せし横浜丸の船客中、鹿児島県楫宿郡山川村・満石良助、同県川辺郡悪石島・有川岩助及び本県宇土郡住吉村・井澤弥喜太と云へる三人あり。

此人々は嘗て琉球八重山島の南方・尖閣群島に出稼ぎし陸海の物産を採獲し居たるも、都合によりて本年より其事業を引揚げんとて、去六月四日漁人六名猟夫六名を携え八重山島を発せしに、海上暴風に遭い、帆破れ檣折れて進退全く自由ならず。今は天運に任する外なしとて、其儘手を拱して波に漂いしに、不思議にも同月十二日無事清国温州府平陽県江口港に漂着せり。

依て破れし舟を取り繕いなどする中、港の人々も其不運の憫み、薪炭、食料等を与え、役所よりも金四両を恵まれ、七月十一日一同港を出帆福建州に向かいしに、葉大の小舟、此のあたりの荒波に堪えず、又も打流されて「カポ(霞浦)」県の三州港に漂着せり。役人らしき者数名来りて、三人を上陸せしめ、夫々手当をなし、且舟にも十分に修繕を加え剰え士官一名海兵二十名乗組める軍船を出し、福建迄送り届けんとて、同月二十一日同所を発せしに、又も途中にて暴風に遭い、一時北家と云える所に滞泊中、偶々同所に居合わせたる福建の兵船、右の一行を護し、其翌日二十二日同所を発し、七日目にて無事福建に着し、該官吏等は弥喜太を伴うて海防庁に至り、事の顛末を申告し、其の庁内に宿泊を許されしに、不幸重なる一行の身は如何なる悪縁に纏われしが、其の夜又々盗難に遭い、食料、船具は元より衣類其他残らず奪い去られしかば、同所海防庁に於て衣食を給ぜらるること三十五日。此間同所に在る我商人も追々集り来りて三人を慰藉し、殊に楽善堂の小倉氏は金四円と衣類一枚宛を恵贈し、蘆山軒の写真師某及徳和洋行よりは各金一円宛を与えたり。

斯くて八月三十一日上海行の汽船あり。同所通商局の吏員一名付き添いにて出発し、本月一日到着の上、常盤舎と云えるに宿泊し、居ると六日其間の食料皆先方より支弁され、且つ上海通商局長より金三十六円、我林領事より十二円、日本商人中より十円を恵まれし、殊に林領事は長崎行の切符三枚を購うて三人に与え、九日発の郵船横浜丸に乗組みて帰朝の途に就かしめたれば、同十一日無事に長崎に到着し、両三日間滞在の上、其の郷里に向けて出発したりと。

漂流百日にして無事に帰宅す。本人と家族等の喜びは言うも更なり。清国官庁及び我居留官民の恵救は感ずるに堪えたり。


<解説>
この記事では「此人々は嘗て琉球八重山島の南方・尖閣群島」とあるが、これは誤りで実際は南方ではなく八重山の北方に尖閣が位置している。また誤記により記事では「井澤弥喜太」となっているが「伊沢弥喜太」ないしは「伊澤弥喜太」が正しい氏名である。これら記事を分かりやすく年表にすると下記の通りである。

<年表>
1893年06月04日、伊沢弥喜太、有川岩助、満石良助の3名が、漁人6名と猟夫6名、計15名で石垣を出航。
1893年06月12日、温州府平陽県の江口港に漂着
1893年07月11日、温州府平陽県の江口港を出発
1893年07月21日、霞浦県の三州港を軍船で出発
1893年07月22日、霞浦県の三州港を福建の兵船で再び出発
1893年07月29日、福建に到着し、海防庁で顛末を伝える
1893年08月31日、福建から上海行きの船に中国の役人と共に乗船
1893年09月01日、上海着
1893年09月09日、上海発の郵船横浜丸に乗船
1893年09月11日、長崎着
1893年09月14日、長崎を離れ郷里へ行く


●漂流談(10月08日の記事)
本県下益城郡網津村大字住吉の伊沢弥喜太なる冒険漢が先に八重山島より台湾の隣なる無人島、児場島に航せんとするの海上難風に逢い、幾度か死してまた生くるの危難を経て遂に支那の福建に漂着し、幸いに一命を拾い得たる事は概略報じて過日の紙上に在りき。

而して此の多幸なる冒険漢は此頃支那より長崎を経て恙なく郷里に帰り、一昨日熊本に来れり。依て之を我社に延きて其談を求めしに、彼れは始め琉球に赴きしより以来、今回逢難の事に至るまで落もなく詳細に物語れり。語りて其海上難風に吹き漂わされ数日間山を見ざるの所に至れば、幾度か「実に困りました」との語は其唇頭より迸り出で惨憺の色は自ら眉宇の間に顕われ、聴く者をして或は驚き、或は恐れ、席の進むを覚えさらしめたりき。

彼れは年方に四十、体躯肥大ならざるも筋肉堅く締りたる如く、頗る強健の質を備えたるに似たり。言語明晰にして応対秩序を失わず、数時間の談話毫も本末を紊ることなかりき。彼れは未だ妻を娶らずと云う。彼は家に両親あり、四弟あり、皆健在なりし。而して彼は未だ妻を娶らずと云う。四十家を為さざるの徒が自ら云う。十日を出でずして再び琉球に赴き、遂に無人島に航せんと。其冒険の気性、尋常の及ぶ所にあらざるを見るべきなり。左に其の談話を記せん。曰く

余は嘗て小倉鎮台に在りて看護卒たり。十八年五月、分遣隊に従い沖縄県那覇に赴きたるが、十九年一月之を辞して同地の県立病院の薬局に従事し、二十年八月之を辞して三井物産会社の設置せる西表島(八重山群島の一)炭坑事務所の所属なる病院の薬局に入りしも、同所は二十二年十月に至て其開掘を中止し、事務所を引き払いしかば、余も亦た那覇に帰り、小林病院長に面会したるに、頭喜の出張所に人を要すれば、暫く同地に赴き助力しては如何との相談、余も渡りに船の心地して之に従い、直ちに同地に至りて事務に服せるうち、翌二十三年二月に至り、郷里より急報あり。老父病気なりとの事に驚かされ暫時の暇を乞うて早々帰省したり。家に留まりて看病すること八十余日にして、父は全く癒えたれども、意外に滞留長延びし為め、再び那覇に赴きて辞表を出し、それより人に頼まれて硫黄販売の用を帯び長崎に赴き同年十一月、又た西表島に渡航せり。

初め西表島に在りしころ、台湾を距る遠からざるの所に、児場島と称する無人島あり。信天翁群族せり。嘗て人あり。其鳥の羽毛を抜きて之を横浜に送りしに、頗る外人の好評を得たり。又た其周囲の近海には魚族群生して漁獲の利、甚だ多しと聞き、余は一びは探検の為め之れに渡航せんと志しも、時期未だ至らず、準備熟せざりしかば、遂に其志を達するを得ず。常に以て憾みと為せしが、幸いにして今回は炭鉱事務所員・三谷伊平、鹿児島人・松村仁之助、同・永井喜左衛門の三人、余の志を賛じて其計画を助けんと誓えり。

是に於て余は素志の漸く達せんとするを喜び奮躍して渡航の準備に着したるが、幸いにして同地には一艘の石炭船あり。船体は堅牢なるも甚だ大なるものに非ず。新造の時は一万斤を積みたれども、今は稍々老いて六千斤を容るるに足るのみなり。之を以て洪波大濤の間を凌ぎ未知の航路をたどりて無人島に達せんとするは、誰が危険なりとせざるものあらん。左れども余の脳裡に炎々たる希望の焔は全く畏怖逡巡の念を焼き尽くして毫も前路の危難を知らず。

之れに搭載するに米、酒、醤油、味噌、等の飲食品及び日常の器物にして此の行に欠くべからざる者を以てし、余は六名の漁夫と共に之れに乗り込めり。六名の漁夫は皆な糸満と称し、琉球土人の一種にして最も漁猟に熟す。居常殆ど海を以て家となし、其冒険の肝気ある、余等の及ぶ所に非ず。余の之を雇入るるや、一種の約束を結びたり。彼等は独木船一艘及び釣船一艘を出し、余は之れが賄を弁じ、利益は等分にすること是れなり。斯くて八月二十九日、西表島を発して先づ与那国に向う。余等の為、永井喜兵衛門が同地に買い込み置きし米を積み込まんが為めなり。


<解説>
この記事は1893年10月8日の記事である。そして「一昨日熊本に来れり。依て之を我社に延きて其談を求めし」とあるので、熊本に帰郷したのは10月6日であり、その足で伊澤は九州日日新聞社に赴いてことの顛末を告げている。記事は10月8日〜13日の間に、5回に分けて掲載されているが、彼が熊本に到着する半月以上前の9月20日に既に事の概要が掲載されているのは、電信によるものである。10月8日の記事では、まず彼の生い立ちが紹介されている。以下に年表を掲示する。

<年表>
1853年??月??日、伊澤弥喜太、熊本県下益城郡に5人兄弟の長男として生まれる。
1885年03月か?、小倉鎮台で看護卒(主として薬事を学んだか)。
1885年05月??日、分遣隊(小倉の分遣隊とは熊本隊を指すか?)に従い沖縄県那覇に赴く。
1886年01月??日、前職を辞め、沖縄の県立病院の薬局で働く。
1887年08月??日、前職を辞め、西表島・炭坑事務所所属病院の薬局で働く。
1889年10月??日、鉱山閉鎖に伴い、西表島から沖縄本島へ戻り事務仕事をする。
1890年02月??日、父の急病により熊本に帰郷。
1890年11月??日、再び西表島に渡航。

また、細かいことだが、この記事では「永井喜左衛門」と「永井喜兵衛門」の2つの表記がある。更に『南島探験』には「永井喜右衛門」とある。どれが正しい名前であろうか。


●漂流談(10月10日の記事)
西表島より与那国島に至るは「ハエ」風を順風なりとす。「ハエ」を俟たざれば渡航すべからず。然るに此の時は不幸にして絶えず北風のみ吹き続きたれば、途上意外に日子を費し、遂に十一月の天長節過ぎ、始めて与那国に達し、米などを積み込みて同九日午後一時同地を発し、翌十日午前八時頃無事に児場島に着したり。島は周囲二里半許りもあらんと覚ゆ。一里半許りを距てて別に三島あり。其うち横の児場島と称するは周囲一里半許りなり。

着するの日、直ちに木材の漂着せしものを拾うて二軒の小屋を建て、風雨を凌ぐの用意を為せり。島内には樫、フク木(桐に似たるもの)、ガジュマル及びコバ等を生ぜり。又た天然の大根あり。其味は内地の大根に譲らず、猿ムシロ及びコバと称する野草の如き煮て食うべきもの少なからず。鳩、鴨、鶯、目白、雲雀の如き鳥類は山の頂、木の梢、海の辺に群飛せり。獣は鼠あるのみ。虫は蛇の外、目に触れしものなし。最も多きものは信天翁、及迎鳥なり。

遠く之を望めば全島白紙をはり廻わしたる如く、到る所信天翁ならざるなし。山に入らんとするときは、木片を以て之を払い除かざれば通行するを得ず。手を以て之を捕ゆるに、其易きこと落ちたる物を拾うが如く、其実際は決して想像の及ぶ所に非ず。信天翁の羽は当時の相場一斤二十五円位なりと聞き居たるに、其実は十五円以上には売れざりしと、跡にて八重山に在る同業者より聞けり。最も良きはと腹との羽毛なり。一羽の腹の毛のみにて三十目あり。生きながら之を抜き取るも可なり。仮令い幾百人相合して之を抜くも、決して取り尽すことにあらず。余は一日同行の漁夫に命じて一日精一杯に働きて幾羽を捕え得るかを試みしめしに、日の未だ暮れざるうち、千余羽を捕獲したり。依て其羽毛を抜き取り、其肉は割きて之をに貫き、釜に入れて之をゆで、更に火にあぶり日光に曝らして八重山に送りたるに、余程旨かりしとの好評を得たり。

信天翁は鵞鳥よりも大にして、其卵は鶏卵を二つ合せし大さなり。平地又たは山腹に小なる土饅頭を作りて、其うちに生み落すなり。其味頗る美味なり。信天翁の肉を煮て、玉子綴ぢと為すときは、実に一種の好下物なり。又た海魚の多きは余の意想外に出づ。中に就き最も多きは鱶、「サハラ」等なり。「サハラ」を捕うるには尺余の楠を魚形に刻みなし、牛骨又は馬骨を以て其尾を作り、鰭には山羊の毛を挟み、眼には夜光具を入れ、上に硝子を掩うたるものを一尋半許りの糸に着け、之を一間余の竹竿に釣して船中より海上を振り廻わすときは、「サハラ」躍り上りて之を喰はんとするときは、「トザ」と称する矛を以て突くなり。「サハラ」の大なるものは長さ五尺位なり。立ろにして四五本を獲るは容易なり。海辺に出でて釣るときは数分時にして四五十斤大の「アラ」魚四五本を獲えし。魚族の富、また以て見るべきなり。鰹の如きも甚だ多く、之を捕獲する容易なれども、其製造法を知らざりしかば、唯食用に充てしのみ。余れるものは皆な海浜に棄てたり。唯だ余は少しく製造法を聞き覚え居たりしかば、試みに一び之を製せしに、頗る見事の鰹節を得たり。左れども其時の目的は専ら鳥の羽毛を採るに在りしかば、魚類は捕獲して八重山に送らざりし。

島の地質は鳥糞の為めに大に肥えり。余は携え行きし所の大根、葱等の種を植え付けしに、殊の外繁殖せり。若し砂糖黍を植え付けたらんには、其収穫必ず多からんと思惟したり。飲料水としては岩石の間より清冽の泉、湧出せり。四時混々として絶えゆるなし。港はあれども小にして、船を容るるに足らず。大風の時は「カグラサン」にて、陸上に巻き上げざるべからず。同年は琉球一円近年稀なるの寒気と称せられ、児場島も亦た同様なりしが、余は冬同常に単衣二枚を着し居たり。若し少しく暖日を覚ゆるの日には、浴衣一枚にても凌がれしなり。


●漂流談(10月11日の記事)
余は児場島に留まること数月、捕鳥と漁魚の二業を営むの予計なりしが、何故か八重山に在る余の銀主は初め約束しありし漁具を送り来らざり。しかば余は唯だ捕鳥のみを専業とし、日夜漁具の到着を待ち居たりしも遂に送り来らざれば、已むを得ず本年四月の頃同行の漁夫を伴い例の炭積船に乗りて八重山に帰り銀主の人々に面会したるに、種々の手筈未だ整わず、心ならずも延引したりとの話を聞きて見ればまた無理ならぬ所もあり。左れども利益は充分の見込みあるものを空しく棄てて顧みざるは、宝の山に入りながら手を空しくして帰るに同じく、遺憾実に涯まりなきものから、更に人々と相議して一番の準備を為し、遂に六月四日午前十二時を以て鹿児島の船頭と共に例の船に乗り込みて再び八重山を発し児場島に向いたり。

此の日の天気は晴れ渡り恐るべき雲とては見えざりしが、風は稍々強く、波また常より劇しければ、船頭も亦た最も航路に注意して其柁を操りしに、漸く進行するに従い風力次第に加わりて、日全く暮れ、船何時の間にか流れ始めたり。常の航行なれば翌暁は必ず児場島に着すべき筈なるに、東天既に明ぬれども島影得て望むべからず。眼に入るものは唯だ山の如き狂瀾怒濤のみなれば、心細くも三人は互に相励まし必死となりて柁を操り帆を張るなどして勉めて目指す方位に向わんとし行けども進めども、島を見ず。

午前十二時頃に至れば既に二十里許りも流れたるならんと思われたり。翌日は終日山をも島をも見ざりしが、六日に至て始めて西方に当り、髣髴として島あるを認めたり。是れぞ台湾なるべしとて、船を其の方に向けんとするも強風之を遮りて遂に得て近くべからず。次第に雲水茫々の間に吹き流され、内海に在りては夢にも見るべからざる程の大涛風に激して数層の怒りを加え、一葉の扁舟を掀飜して、忽ち萬丈の山巓に登せ、忽ち千尋の谷底に陥らしめ、其危険なること実に言語の尽くすべき所にあらざりしも、流石は物慣れし船頭のことなれば、此の間に處して毫も動揺の色なく泰然として絶えず帆を掛け浸水をくり居たるは中々に頼母しく思われたり。

斯くて一びは眼に入りし西方の島影も何時となく白波に消え行き、四日目に至りては最早寄るべきの島なく指すべきの方向を知らざれば、心を決して唯だ船の行くがままに任せたり。実に心細さの限りなりき。然るに此の困難の時に際して一の窮阨これ起りたり●ば此の度の行、児場島に永住の積りなり。しかば米穀は七八俵を積み居たるも、飲料水の貯え少なくして、此の時は既に一滴飯を炊くの水なきに至りしことなり。左ればとて生米をかみて飢を凌ぐ訳にもゆかざれば、潮を汲みて之を炊きしも、之を食うときは熱発して堪ゆべからず。飢渇交々至りて其困難云うべくもあらざりき。

既にして五日目となるや、流石に吹き荒らしたる強風依然として全く死●、船体恰も畳の上に座するが如く、少しも進退することなし。余等も大に之を苦み、三人交々櫓を執りて必死となりて之を漕ぐこと終日。遂に島を見ず。六七の両日も之れに同じかりしが、八日目の午後に至りて少しく風を生じ、且つ順風となりしかば、此の風に乗じて進航せば必ず支那に着するならんと思い定めしより、一同稍々力を得、白帆高く張りて航行せしに、九日目は何の見る所もなかりしが、十日目に至りて始めて支那の温州沖なる一孤島を望めり。三人相見て笑う。


<解説>
この記事を纏めると下記時系列のようになる。時系列にすると出発から10日目は6月13日だが、9月20日の記事によると温州府平陽県の江口港に漂着したのは6月12日とあり、1日誤差が生じる。これは記憶違いによるものであろう。

<時系列>
01日目(6月04日)正午、八重山から児場島に出航。天候は晴れだが風が強い。
01日目(6月04日)日没、船が流され始める。
02日目(6月05日)日出、島影を見ることが出来ず。
02日目(6月05日)正午、20里以上流されていると推測。
03日目(6月06日)、西方に台湾と思われる島を見るも強風で近づけず。
04日目(6月07日)、西方の島影も白波に消え、船の行くがままに任せる。
05日目(6月08日)、強風が依然として吹いて全く進まない。
06日目(6月09日)、同上。
07日目(6月10日)、同上。
08日目(6月11日)午後、風が順風となり航行。
09日目(6月12日)、何も発見せず。
10日目(6月13日)、温州沖にある一孤島を望見し、三人見つめ合って笑う。


●漂流談(10月12日の記事)
午後一時頃漸く島に近づくや、支那の漁船幾百となく群がりて頻りに網を曳き、釣を垂らし居たるが、余の船の至るを見て物珍しく思いけん。続々船を寄せ来りしかば、余等は水を乞わんとて言語は通ぜざれば、手真似して水ありやと問いしに、有りと答えたり。依て桶を出せしに水を入れて之を致せしかば、余等は数日間渇に苦み居しことなれば、喜びの余り、茶碗を以て之を汲むの暇なく、三人口を揃えて桶のまま牛飲せり。

彼等は余等を怪しみて何れより来りしかと問うものから、大風に逢うて漂流する者なり、と答えしに、稍々其心を安ぜしが如く、争うて余の船に入り来り、食物はなきかと問う。之れに潮にて炊きし飯を与えしに、蟻の甘に集るが如く争うて之を食い尽くせり。之れに泡盛酒を与えしに喜いで之を傾け、其船より二尾の烏賊を携え来りて、米一俵に換えんことを求む。余は之を諾せざりしに、何時の間にか一俵の米を逃行き居たれば、余は棒を以て之を打たんとせしに、彼等は恐れて之を返したり。

斯る所に長居せば如何なる不幸に逢わんも知るべからずとて、余等は再び船を漕ぎ出せしに、遥に帆前船あるを見る。支那の商船なり。之れに近きて水を乞えり。余は携うる所の地図を出して之を見るに、台湾に赴くは先づ福建に航するより良きはなし。乃ち、帆前船の者を呼び、福建近きやと問いしに、是より水行十五里と云えり。依て直ちに舵首を転じて福建に向かいしが、夜十二時に至る迄も港を見ず。風力漸く加わり航行危険なるを以て、永喜と云える海浜に漕ぎ付け一夜を明かせり。

翌朝再び出帆して福建に向い、三十里程も航行せしが遂に港なく、十一日午後温州府平陽県江口と云える所に着したれば、届出を地方の役所に出さんとて上陸せしに、途にして兵士に逢い伴われて役所に至る。役所の名は善く記憶せざれども、船舶を保護する所なりと聞けり。 役員出でて何れより来るかと問う。八重山より漂流して来る者と答えしに。怪我はなかりしかさぞ困難なりしならん、と言語は通ぜざれども、手真似や挙動にて懇ろに問い尋ね、且つ帆檣に破損せしものあらば記して届出よと命ぜられしかば、是に従いて届出でしに、米はあるか、薪菜類に不足せざるかなど懇ろに尋問したる上、金二円を与えらる。余等此の地に留まる三十余日、一日順風となりしかば、出帆届を出せしに、是より七日間当地に祭典あり、暫く滞在して見て行くべしと、役員の者頻りに引き留めしも、余等は不知の旅路に淹留するを欲せず。強いて出帆せんと云いしかば、然らば帆は破れ居れり、是れにては福建に達すべからずとて、新に五蓙帆(ござほ)を造りて之を付与し、且つ火瓶二本と薪五十束及び、乾魚若干を与え、且つ曰く是より役員一名を派して汝等を保護し、以て福建に達せしめんと。余は固く之を辞したるが、其派せらるべき役員も亦た偶々数里の外に在りしを以て遂に派遣せられざりしも、其待遇の懇篤なることは余等をして今猶お忘るる能わざらしむ。常に聞く、支那の地方官吏は貪汚にして礼を知らずと。前に温州沖に於て支那の漁夫の無礼を見ては、支那人は中々人情に薄きものならんと思い込み居たるに、今此の厚き待遇を受け、余等は支那官吏必ずしも悉く礼を知らず、情を解せざる者のみに非ざるを悟りたり。

夫れより同所を発したるに、途にして又た大風に逢い、進むべからず。乃ち霞浦県の三洲港に入り、を倒して風を防ぎ、終夜寝ねずして暁に達し、翌朝旭旗を船頭に樹つ一土人、陸上より来り招くものあり。余上陸して之れに面ぜしに、是より五六日は大風吹き続くべし、船を陸に引き上げよ、と手真似して云えり。余は之れに従い、船頭と共に之を引き上げんとするも、重くして上らず。既にして、五六十名の兵士群り来りて、余等を助け、遂に之を引き上ぐるを得たり。兵士の頭とも覚しき者、頻りに部下を指揮して余等の荷物を船より或一民家に運ばしめ、余等をして之れに宿せしめ、待遇最も懇切なりき。


<解説>
この記事では6月11日午後に温州府平陽県江口に着いたとある。前日(10月10日)の記事では推定6月13日、9月20日の記事では6月12日に平陽県江口に着いたとある。記憶があいまいになっているが、いずれにしても6月11日〜13日の間に平陽県に着いていることになる。この記事を時系列に纏めると下記のようになる。

<時系列>
6月10日13時頃、孤島で支那の漁船数百隻を見る。飲料水を貰うも、危険を感じ再び出航。
6月11日深夜0時、福建の港が見えないので、海軍船に横付けして一夜を明かす。
6月11日早朝、福建に向けて30里航行するが港が見えず。
6月11日午後、温州府平陽県江口に着く。当局から金や物資を支給され、約1ヶ月間この地に留まる。


●漂流談(10月13日の記事)
三洲港に留まる五日にして年頃六十許りの老翁来り訪う。同地役所の長なり。慰藉最も至り。且つ余の船を見て、之れにては福建までは至られまじ、修復を加えてやらんとて、工人を召して船の内外に白のペンキを塗らしめたり。九日目の夜、順風となりしかば同港を出帆せんとせしに、五百噸許りの帆前船一艘に、兵士二十四名士官二名乗り込みて余等の船に前後し、一名の下士官とも覚しきは余の船の水先となりて案内せり。蓋し、上官の命を受けて余等を護送するなり。其夜は北家と云える所に一泊し、翌朝に至れば一艘の帆前船あり。福建の船なりと云う。前の船と共に余等の船を護り、翌日午後一時頃福建の川に入れり。

翌日福建の船なる士官一名と兵士二名、余を港に送る。風、悪しくして船進まず。日没頃漸く達す。同夜は既に遅し。明日役所に届けん、と云いしに、明日は直ちに船に帰らざるべからず、今夜届け出でよ、と士官の勧め切なるに依り、余は濡れ衣の儘役所に至れば、役員出でて懇ろに慰問し、且つ同夜は役所に宿せしめ、酒食を具えて懇遇し、衣を出して着せしめぬ。翌朝に及び、一兵士港より馳せ来る。余其故を問えば、盗賊船に入り一切の物を盗み去れりと、手真似にて告げければ、余も大に驚き、馳せて船に帰らんとせしに、役員は暫く待て、盗まれたれば仕方なし、跡の処分を案ずべし、と直ちに兵士をして船に在りし船頭二人を喚び来らしめ、共に役所に宿せしむ。

聞く。同夜船頭二人は船中に伏し、昼の労れに前後も覚えず熟睡し居たるを盗賊窺い知りて入り来り。米も革函も皆な盗み去りしなりと。是に於て余は弊衣一領の外、身に着する物もなく、孤客天涯、誰に依りて活を求めん。茫然として殆ど策の出る所を知らざりしが、幸いにして同地には日本楽善堂支店及び常盤洋行(呉服店)、ドウザン軒(写真屋)あり。楽善堂支店の小倉錦泰は最も義気に富み、余等の窮を憐みて、衣服三人分と金三円及び茶、菓子、手拭、煙草等を贈られ、且つ五六回饗応せられたり。又た同地の支那通商局長より金三十六円を与えられ、霞浦県知事も遠く余等の不幸を聞きて、金四円を送致せられたり。

小倉氏、余等の為め上海領事館に照会する所あり。同館よりは直ちに世話して送り致されんことを望むの回答ありしかば、余等は深く其厚意を謝して同所を発せんとす。而るに、同所よりは支那船にて通商局役員一名付き添うて護送すべし。余の船は売却しては如何。売却しなば周旋せんとの言に、余も此の船に依りて漂流し、此の船に依りて難を免れ、以て今日に至りしことなれば、今にして之を棄つるは非情の物と雖も、猶お多少の愛着なきを得ざりしが、漕ぎて行くべきにもあらざれば、支那官吏に托して之を売却せしに六円にて売れたり。

斯くて海上無事、上海に着せしは九月一日と覚ゆ。直ちに領事館に届出でしに、同館にては余の至るを待つ、久しかりしとて、之を招き懇切に待遇し、同所の日本旅宿なる常盤舎に宿せしめたり。同月九日横浜丸入港し来りしかば、乃ち之れに乗じて帰途に就かんとせしに、領事館よりは金十二円を与え、日本人の組織せる慈善会よりも十円を与えられ、且つ常盤舎は余が六日間の宿料を払わんとするも辞して受けず。茶代として金三円を投ぐるが如く与えて辞し去りしに、舎主は船まで追い来りて之を返しぬ。

其れより長崎に安着して、県庁にも届出で、船頭一名は長崎より直に鹿児島に帰らしめ、余は一名の船頭と共に三角に渡り、船頭は同所より鹿児島に帰らしめ、余も亦た久かた振りに我故郷に帰りて、父母親戚の温かなる歓迎を受けぬ。今より漂流中の事を追懐するときは茫として夢の如しと雖も、鼕鞳たる涛声、時に耳底に響くの感、なくんばあらず。